我が戦記 第三章 |
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昭和19年3月ビルマ方面軍隷下の第15軍は、史上悪名高きインパール作戦を発起し、やがてはインドにまで進行しようとしていた。何を血迷ったのか、まだその先の地図まで渡されていた。
しかし、この作戦は日本軍をインパール平地に引き寄せて撃滅するとの英印軍の作略に見事にはまった。第15軍三ヵ師団は崩壊。雨期の最盛期でもあり、飢えとアメーバ赤痢とマラリヤのため、名にしよう印緬国境アラカンの深山幽谷の中に次々と倒れて行った。出動した8万7千人の約7割以上が死亡した。 昭和20年に入るやビルマ方面軍は、ビルマの大河イラワジ河畔まで撤退し、態勢を建て直し、追尾来攻する連合軍を迎撃しようとしたのである。(第一章、二章参照) こうして一月以降イラワジ会戦は運命を賭して、壮絶に展開するに至った。 飛行機も戦車もなく火力の乏しい日本軍は、如何ともしがたく、あるのは大和魂だけであった。昼も夜も、圧倒的に敵の銃弾が飛び交い、特に夜は、赤い火、青い火の敵の曳光弾が夜空を花火のように彩っていた。戦況は急を告げており、夜戦で自分は連隊本部から二大隊本部へ、兵2名を連れて連絡に出発した 二大体本部はどこにあるのかも分からないが、その方角とおぼしき所に向かって出発せざるをえない。半分は駆け足で飛んで行った。なにしろ、銃弾がめちゃくちゃに夜空の空気を切り裂いている。5キロくらい行ったところ、むこうから日本軍が逆にこちらにやってくる。近付いて見ると第二機関銃中隊で、すれ違う兵隊の中に不思議なことに小学校の同級生、内藤君がいるのが夜目にも見えた。「やあ、内藤」と言ったきり、後の言葉を交わす余裕もなくすれ違った。さらに進み、二大隊本部を探したが、どこまで行っても日本軍は、もういない。 諦めて連隊本部へ引き返してみたところ、もう出発した後で誰も残っていない。我々3名だけが取り残されてしまったのだ。まごまごしていると、敵に殺されてしまう。 これはだめだ、もう敵の懐に入ったのと同じことだ。日本兵がここにいると分かれば、たちまちやられてしまう。3人とも、牛小屋に潜り、ビルマ人が敵さんに知らせないよう、交替で監視して夜を待った。
それは、昭和20年5月8日の事であった。皆半病人みたいな体でどうしようもないのに、大河を前にして軍の機密書類その他3000梱を渡河させるという重大任務を与えられた。大部分はすでに渡河してしまって、自分に与えられた兵員はほんの僅かである。この貨物を渡河させなければ、自分も退却できないのだ。渡河点は工兵隊が架設した、杭を打ち込んだ上に板が一枚乗っているだけのもの。そこに3000梱の貨物が集積されていた。 戦後のことになるが、二木君の母親の知り合いの松本市出身の婦人が渡米されて、向こうで兵庫出身のある男性と知り合いになった。 ところがそれが意外にも、二木弘君の母親が息子に出した手紙であった。 あまりにも奇妙な巡り合わせに驚いた婦人は、事情を述べてその手紙をぜひ二木君のお母さんに返してほしいと懇願し、うち2通だけを貰い受けたのが、お母さんの手許に還って来た。 昭和49年、靖国神社で二木君のお母さんと会い、ビルマのモニワでの写真をお渡ししたところ、「あなたはこんなに立派に生きておられるのに、うちの息子だけどうしてころされたのか・・」と泣かれたが、慰める言葉もなく、もらい泣きした。 この写真を見る度に、往時を偲び、その後の世の移り変わりの激しさを実感している。
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