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我が戦記 第二章


 日の丸を付けた飛行機は、全然見たこともない。昼間は上空に敵の竹トンボ(偵察機)が悠々とグルグル廻りながら飛んでいる。低空なので射ちたいが、射ちようものならすなわち機関砲を左右に突き出した敵戦闘機ハリケーンの猛烈な機銃掃射が待っているので、どうしようもない。日本軍を全滅させようと地上には戦車、空には飛行機が低空で飛び回り、操縦士の赤いマフラーが風でなびいているのを、木陰に隠れて見守るのみ。なによりも煙りを出さないようにしないと、機銃掃射されるのだ。こいつにやられた者は、片腕が付け根から吹っ飛んでしまった。

昼、ジャングルに潜ると、ようやく一息休める。第八中隊の八百板準尉の最後を聞かされた。彼は秋田県出身でいつもにこやかな、円満な人柄であった。腹部に貫通しないような、先の円いタマの盲貫銃創を受け苦しみつつ、自分の最期を悟り、世話になった当番兵に遥か日本の方を向かせてもらい、形見として時計を与え、「天皇陛下万歳」を三度唱えて、事切れたとか。

次々とこの異郷の地に埋葬されることもなくその生命を終える戦友を見ることは、文字どおり断腸の思いである。遺骨として、小指を切り取るときは、感無量だ。

 昼間は煙りを出せないので、飲み水は夜のうちに確保しておかねばならない。その水たるや、やっと見つけた水たまりの、ボーフラの遊んでいるのを追い払って、水筒をぼこぼこと沈めたもので、それを完全煮沸している余裕もないのだ。したがって大多数の者が、アメーバ赤痢患者である。もうこれ以上体力がないという者と、足を傷めた者に残された道は、自爆あるのみ。アメーバ赤痢というのは常に便意を催し、出るものは蛙の卵のようなものだけだ。

自分もアメーバ赤痢とマラリヤで38度以上の高熱が出て、どうにも体がだるく、歩けなかった。それでも高校時代長商(長野商業)籠球部で、座り込むまで搾られたのが役にたったのか、歯を食いしばって歩いた。きれいな水を腹一杯のんだら、死んでも良いと思った。

 夜のうちにジャングルからジャングルへ移動するのだが、どこまで行ってもジャングルが見つからないので、大慌てである。そのうち、とうとう夜が明けてしまった。見ると、大草原の中に、周囲200メートル位の池がひとつ見える。仕方ないから、池の周りに一人ずつ寝て天幕を被り、日中絶対うごかないことにした。もし日本軍だと分かれば、空と陸から攻撃されて、皆殺しにされる。空から見れば、草に見えるかもしれないというのだ。一日中動けない。その暑さは未だに忘れられない。

 食料は、野草に籾の皮を剥いた玄米粒5つくらいを飯盒にいれて、軍用靴下の中でベトベトになっている岩塩を少し入れて炊き、米粒がのどを早く通り過ぎないように、味わって飲む。それが終って横になると、奈落の底に吸い込まれるように睡魔に襲われる。日本にいた時の光景が、一瞬スーっと頭をよぎる。主に腹一杯食べられた時の光景である。

 横になった時は、背嚢や兵器の重さもなく、急に体も軽くなると共に、日本にいたときの夢を見る。暫くすると、そのどれもこれも遠い昔の事で、ふと現実の我に還る。もう日本に還れる望みもないなら、このまま起き上がらないほうが楽だ。このまま死んでも仕方ない。誰かが、ここで死んだということを家族に伝えてくれさえすれば、それで満足しなければならない。今は紙一枚でも重いと感じる。日本から第一線までやっと辿り着いた真新しい軍装のまま、この苛烈な戦場に、今は全く精根尽き果てて倒れている兵隊を蹴飛ばして、「おい、このままそうしていると死んでしまうぞ。」というと、うっすら目を明けて「敵が仰山きやはって、あきまへん。」と言ったきり、ふたたび目を閉じて動こうともしない。

 インパール戦線で、我々を援護すべくやって来た京都の兵隊たちが、たくさん葬られて白骨街道と名付けられたときも、栄養不良と疫病と負傷とで、体力の限界に達した時に皆そう思いつつ野垂れ死んだのだろうか。VTRに出てくるのは、この光景である。

 この凄まじい戦況が、銃後の人々に分かろうはずもない。終戦後、連隊長笹原大佐の遺骨も小指一つしかなく、せめて体全部のものが欲しかったと、遺族の人たちが号泣された。

Photo・Rituko Ishii


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